思うこと
最近の不景気は、一時的な好況、不況の波なのだろうか。
一連に起きてきた若年犯罪、腐敗、退廃、いつの時代にもよくある一つにすぎないのか。
どうも、そうではないような気がして来た。
世紀末なのだ。
「世紀末」なんて、キリスト教の暦法の単なる数字の区切りに過ぎないのだから、
自然科学的には何の意味もないのだが、社会や歴史は自然科学で動いているわけではない。
人の想いで動いているのだ。
したがって、「世紀末」は有る。
というより、人々の想いが作り出すのだ。
あたかも、蚕が吐き出すか細い糸が、紡がれ、紡がれ丈夫な繭になるがごとく、
人々の想いや怖れが、紡がれ紡がれて現象化してゆくこと、
その過程がまのあたりにできるこの時代に生きることは幸福というべきか?
環境
「世紀末」といえば、地球環境もじわじわと破綻に近づいているのだろうか。
今一番話題のダイオキシンを筆頭に、1960年代にすでに深刻だった環境汚染は、
直截的な毒物としてだけでなく、「環境ホルモン」という伏兵の形でも姿を現しつつある。
生物としての人類を調整しようとすべく、神の手がいよいよ働きはじめたか。
自家中毒
「環境ホルモン」が種の保存にじわじわ影響を及ぼしつつあるらしいが、
考えてみればその予兆として個体レベルでの自己免疫障害がずうっと増えてきていたのだ。
いわゆるアトピーを始めとして、エイズに至るまで、現代病の特徴的なところは、
みな、「自己免疫系」のバランス障害と深く関わっている点だ。
黴菌を防ぎ、「汚れ」を徹底的に排除し続けてきた近代文明は、自己防衛機能をひたすら甘やかし続け、
ついには自己から自己を防衛することすら危うくなってきたのか。
汚れ
本当に汚れているのは何だ。
見た目の清潔さ、抗菌加工グッズに囲まれた現代文明は、本当に清潔なのか。
抗菌プラスチックの清潔さの裏では、PPB単位でホルモン攪乱物質が染み出てくるように、
爛れた人の心が病んでいるのではないのか。
「意識せずして病んでゆく」、清潔で機能的、合理的であろうとして荒んでゆく。
そんな人の心と想いがあれば、それゆえに「世紀末」は有る。
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